『ミステリと言う勿れ』 田村由美(著)
あらすじ
伝えることで傷つくこともいるけれど、それでも見てしまったこと知ってしまったことを「なかったことにはできない主人公」が、伝える。『BASARA』『7SEEDS』の田村由美氏による、ミステリ作品。既刊10巻、『月刊フラワーズ』にて連載中。
日常にひそむ違和感を、整くんが言語化してくれる
毎度「それ、僕いつも思うんですけど」と話し始める主人公・整くんは、コトコトとカレーを煮るのが好きだ。わたしも、苺のコンポートや黒豆などの煮込みに時間がかかる調理が好きだ。煮込んでいる間はそれができあがるまでの様子や火加減にのみ気を配り、いやな気持ちも煮込んでいるかのように「無」の境地に達する。最近はポトフをよく煮込む。次の日にはカレーになるが、最近はグラタンにするのも好きである。
月9ドラマ放映時には「夫が見たがらなかった」というツイートを見かけた。その理由であろうエピソードが作中には何度か登場する。特に1巻の「日本の父親は育児への参加を『義務』だと思っているが、海外のメジャーリーガーなどは『権利』だと思っている」という整くんの台詞のインパクトは大きい。
「そういう意識の差があったのか」と驚き、納得した。「イクメン」という言葉や父親が買出しをしたり、食事を作ったりするだけで褒められることに対する違和感はあったものの、この漫画で言葉として目にしなければ、意識の差について考えもしなかったし、それが世間の多くの人の目に触れることもなかった。「義務」と思っている人にこそ見てほしいのに、そういう人だからこそ話を見ることも聞くことも拒否するのだろう。
憤りを感じつつ、さらにぐるぐると考えてみる。
男性が子育てに積極的でないほうが、会社にとっては都合がいいからだろうか。夜遅くまで帰れない仕組みや単身赴任や転勤が容赦なく行われているのだろうか。
どうして、わたしが食事を作っても当たり前で、夫が作っていることを話すと、味付けが子どもにとって濃いものが続こうが、栄養がかたよっていようが、「えらいね、優しいね」と手放しで褒められるのだろう。「ぜいたく言っちゃだめだよ」「私なら疲れて帰ってきた夫にそんなことさせられないな」という言葉も、「最近は男性も子育てするのね」という言葉も、父親がまるで子育ての当事者ではないかのようで、納得がいかない。
年始から試している「モーニングノート」。
ノートに書くようになったきっかけは、夫が何冊も持ち帰ってきた分厚いノートが溜まってきたことだった。できるだけ朝に、難しければ昼過ぎに、考えたことや気になったこと、最新のビジネス用語の意味、行きたい場所、そして日常で感じた違和感も吐き出していく。ノートを一気に3ページずつ埋めようと思うと、自分の目でみたことや、それまでの会話や知識、その時の感情までをどんどん書き出さないと追いつかない。時折、おおざっぱな図解をまじえながら、あれこれ書いているうちに、ノートの中で自分なりの意見がまとまるときがあり、「頭の整理になっているな」と感じる。
ポトフを煮込みながら、明日は何をノートに書き綴ろうか考えを巡らせる。おたまで鍋をぐるぐる、頭のなかをぐるぐる、鍋のなかみが煮立つころにはなんだか気持ちもスッキリしている。頭のなかを整理すると晴々しい気分になるのは、「心」が脳にあるからだろうか。
『サイコドクター』 亜樹 直(作)的場 健(画)
あらすじ
心の悩みを相談できる「楷恭介心理研究所」の所長兼カウンセラーの楷。寄せられる相談者として、他者への嫉妬心のあまり人格が変わる人物や、自己啓発セミナーによって人格を操作されてしまう人物が登場する。楷は、人の外見や仕草、交友関係などを分析し、複雑な心の闇の解決に少しずつ近づいていく。全8巻。
本当に「自分の心」で決めたことなのか、立ち止まってみる
本作で取り上げられているのは、人間が「どうにかなってしまう」心理学である。
作中で、ある女性は、夫への嫉妬心や憎しみを押し隠し、自分を変えるために自己啓発セミナーに参加する。詐欺めいたセミナーをとおして、女性はこれまでとは違う人格になってしまう。本人はよい方向に変わったと思い込んでいるが、周囲はあまりの変貌にとまどい、セミナーのやり口に嫌悪をいだく。憎しみが原動力になった時点で、心が暴走していたのか。
自分自身のことであっても、「心」のコントロールは難しい。失敗続きで何事もうまくいかないと感じたとき、ふと「わたし、変わりたい」という言葉が口からすべりでる。変わるためには、「行動」や「努力」が必要。分かってはいるけれど、なかなか長続きしない。年始に決めた早寝早起きの目標も1カ月で心が折れかけている。自律できる人がうらやましい。
そもそも、どうして「変わりたい」などと思うのだろうか。
小さい頃、「女は愛嬌」と言われるたびに、胸がキュッとなった。可愛げがない、女の子らしくない、そんな自分を横からチクチクと刺されるような痛み。大人にもなれば、それがいわゆる「処世術」で、「印象が悪いよりかは良いことに越したことはない」と理解できた。それでも、「人は見た目が9割」なんて言葉にはドキッとする。
面接で「不採用」という結果を突きつけられると、「私には愛嬌がなかったからだろうか、見た目をきちんとしていなかったからだろうか」とネガティブな感情が胸でとぐろを巻く。
「私は変わらなければいけない」は、もしかしたら、一種の「洗脳」かもしれない。
『ここは今から倫理です。』 雨瀬シオリ(著)
あらすじ
ある高校で倫理を教える高柳先生は、他の先生とはどこか違う。一方的に説教をするわけでもなければ、校内で喫煙をしている良き模範となる先生でもない。悩み迷う思春期の生徒たちに、先生自身も葛藤しながら、倫理学をとおして心に触れていく。既刊6巻。
よりよく生きていくために、よくも悪くも経験を積んでいく
高柳先生は、倫理学を「学ばなくても将来困る事はほぼ無い学問」であり、「人の心に触れ、自分の心に触れてもらう授業」であるという。授業には、哲学者の言葉や宗教用語など、真に迫る言葉が登場する。例えば、ソクラテスの「無知の知」や「アレテ―(徳)」「エウゼーン(よく生きる)」、ニーチェの著書『善悪の彼岸』からの引用である。
知的好奇心が強い人であれば、出てくるキーワードごとに調べたくなったり、学び直したくなってくるはずだ。わたしには先生の「自分で決めていい」というセリフが響いた。
わたしが働き方を自分自身で選択できる「フリーランス」だからだろうか。生活や仕事の自由度の高さに慣れてきた一方で、人に強制されていると感じたり、権利を侵されていると感じると、以前よりも過剰に反応してしまう。なんだか気持ちがピリピリしている。
この数年で特に気になっているのが「思いやりをもとう」という言葉だ。思いやりをもっているかどうかを、他者に伝わる形にしなければならないのかと、へそ曲がりな私は思う。
もしも思いやりを「人のために」と行えば、それぞれの思う「ある人(または人々)」のために動くだろう。だが、この「ある人(または人々)」が互いに合致していないと厄介なことになる。行動の矢印の方向が異なれば、当然互いに抱く感情も変わってくるからだ。「どうして〇〇のために、もっと思いやりをもってやらないのか」という議論にはまるで思いやりが感じられない。
そのように考えると、子どもたちにずいぶんと申し訳なく思う。「どうしてそんなことするの」とよく言うからだ。私の「どうして」が飛び出すシーンは仕事も家事も慌ただしくなってくる夕刻が多い。「なぜご飯を食べる前に遊びはじめるの?」料理が冷めてしまい、入浴の時間もずれて、子どもの就寝時間が遅くなる。親心と言えばそれまでだ。
子どもにとってみれば「そんなこと」ではなく「いま一番したいこと」で、「どうして」は「したいから」に他ならない。親子であっても、不一致はある。同じことを考えていることなど、ほとんどない。だから、「そんなこと」と言い放つ母親は、ひどい鬼に見えるらしい。実際に、母の日の似顔絵に「角」も描かれていたのはキツかった。
まだファンタジーの世界に生きている子どもたちは鋭い。「どうしてそんなことするの」の根底にある、「わたしの思うベストのために行動してほしい!」という、他者が自分をコントロールしようとする気持ちを感じ取って、わずらわしく思ったのかもしれない。時と場合によるが、「困るから、こうしてほしい」とストレートに伝えるほうが、素直に聞いてもらえそうだ。「思いやりをもってね」も同じではないだろうか。
小さなことでも、人によって善悪の基準は違う。相手とは見えている景色が異なることもある。関わってみなければ、相手の心も、自分の心も見えてこない。「よいことばかりして生きる」というのは難しいが、よいことと悪いことを繰り返しながら、わたしなりに「よく生きる」を実践していきたい。