テーマ「異国×旅×自我 アイデンティティの発芽」より おすすめ漫画4作

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『サトコとナダ』 ユペチカ(著)西森マリー(監修)

あらすじ

アメリカの大学へ留学した日本人のサトコは、現地でルームシェアの募集をしていたサウジアラビア出身のナダと暮らすことになる。それまではあまり知らなかった「ムスリム」の女性たちと出会い、その文化に触れながら、サトコは自分の殻を破っていく。全4巻。

「かわいそう」なんて言葉はいらない

本作を読むまで、私はムスリムの女性が被り物で顔や髪を隠していることについて、「外へ見せることが許されていない、見せられないのだ」とただ漠然と思っていた。だから、作中の「かわいそうだと思ってほしくない」というセリフにドキッとした。

ムスリムと聞いて最初に思い出したのは、2010年に公開された「セックス・アンド・ザ・シティ(SATC)」の2本目の映画の1シーンだった。アラブ首長国連邦を舞台に、トラブルに巻き込まれた主人公たちをムスリムの女性たちがかくまってくれるのだが、部屋に入った彼女らが被り物を脱ぐと、美しく手入れされた髪と、ハイブランドファッションに身を包んだ姿があらわれる。

そのシーンを観てはじめて、被り物と中の姿が異なることが頭の中でつながった(映画による誇張もある。それに実際のロケ地は諸事情によりモロッコだったらしい)。見せてはいけないからといって、必ずしも服装が質素でなくてもいいのだ。

作中でサウジアラビア出身のナダは「生まれた国をかわいそうだなんて、言われたくない」と発言する。ムスリムの女性たちは、地域や国によって被り物の形、隠す面積も異なるらしい。全身を覆う「ニカブ」という被り物を着て、「実は今日はパジャマなの」とナダは可愛らしく笑っていた。

ちなみに、ムスリムとは「神に帰依する者」という意味だそう。ムスリムの文化は作中にふんだんに登場する。例えば、日が出ている間は飲食をしないラマダーン(断食)。食べないから痩せてしまうのではないかと心配するサトコに対して、ナダは「ところがどっこい!夜にたっぷり食べちゃうからラマダーンは太るのよ!」と話す。日中に食べられないからかわいそう、なんて話ではなかった。

文化に興味があるものの、なにもかもに驚く日本人のサトコを、ナダは「赤ちゃんみたい」と称した。それほどまでにサトコは世界の文化や常識を知らなかった。強い信仰心もない。まっさらな状態だからこそ、相手を受け入れられるサトコ。他国の人や海外生活に慣れている人からすれば、警戒心のなさや無知さを笑われるかもしれない。言っても大丈夫なこと、悪いことを間違えるかもしれない。

でも、“隣人”を知らないからこそ、受け入れられる土壌がある。それは全然、恥ずかしいことなんかじゃない。

『ジャポニカの歩き方』 西山優里子(著)

あらすじ

主人公、青海空土は友人との卒業旅行中にタイでトラブルに巻き込まれるも、在タイ日本大使館で働く女性に無事助け出される。その後、空土は縁あって「在外公館派遣員」として開国したばかりのラオ王国へ。慣れない海外生活に何度も心が折れそうになりながらも、日本人らしさを武器に現地の人や国際問題といった難題に立ち向かっていく。全7巻。

不器用なりに、諦めずにもがきつづけろ!

物語の冒頭、タイで空土たちはチンピラ集団に飲み屋でぼったくられそうになる。そして帰国後には、さまざまな国の駐日大使の妻たちが出店するバザーで、空土はまたもやトラブルに巻き込まれる。タイでの教訓を糧に「妥協点」を探そうとするものの、付け焼刃ではうまくいかずに終わってしまう。

うまくいく方法、つまり“答え”をあとから聞くと確かにその通りだと納得できる。でも、自分事となるとなかなか答えを見つけられない。しかも、前提条件や知識をきちんと理解していなければ難しい。つまり、臨機応変な対応が求められる。この「臨機応変」というワードこそ、私のウィークポイントに他ならない。

仕事でも「臨機応変にお願いします」と言われると、途端に鼓動が早鐘をうつ。あぁ、失敗したらどうしようと、逃げ出したくなる。挙句、失敗をした夢にうなされる。

日常生活でも、子どもの洋服を気候にあわせて用意するときに、「本当にあれでよかったのかな」などと考えて、ベストなセレクトを逃す。料理の適量、引き際、タイミング、いい塩梅、どれも混乱を引き起こすキーワードである。

会うたびに、専門分野を活かして新しい仕事にチャレンジする友人は「なんとかなるよ」とよく口にする。彼女を自分に憑依させて「なんとかなる」と思ってやってみるも、確認漏れやケアレスミスで済めばラッキー、ひどいときには「間が悪い、運が悪い」だのなんだの言われる。仕事だから、「いやー、頑張ったんですけど、ダメでした。努力はしたんです」とは言えない。特に、成果や効率性を重視する昨今ではNGワードかもしれない。ぐっとこらえて、その日はいつもより甘い飲み物を飲んで気を紛らわせる。

狭い世界しか知らず、大人しくて、典型的な日本人と称される空土は、ピンチに陥るとおびえて、縮こまってしまう。その彼が、失敗を経て「なんとかしよう」ともがいてもがいて、もがき続けて、ほんの少しずつ成長していく。テクニックでも、知識を詰め込んだわけでもない。彼は諦めなかった。

思考停止しなければ、糸口が見つかるものなのかもしれない。これまでは慣れない仕事にも知識を詰め込んで立ち向かってきた。不器用だけれど諦めずに取り組み続ければ、私の可能性がひらけてくると、もうしばらく信じてみる。

『僕らの地球の歩き方』 ソライモネ(著)

あらすじ

主人公の鈴村朝日は、同棲している佐山深月とともに、ある目的を胸に世界一周に旅立つ。1巻ではアジアのタイからスタートして、欧州へと旅は続いていく。少し繊細な朝日と明るく人懐っこい深月は一見正反対だが、お互いがお互いを大切に想っている。旅先で定番の観光地をめぐったり、食事やお酒を楽しんだりしながら、さまざまな人や考え方に出会い、だんだんと2人は変化していく。既刊3巻。

ラベリングは、他者にわざわざ説明することではない

2人が訪れる国々の街並み、看板の文字、歴史的建造物、食事の絵は、どれも丁寧な筆致で描かれている。本作を某『地球の歩き方』のように持って旅をしたいと思った。特に1カ国目に訪れるタイでの物語が気に入っている。

バンコク市街でレイコという人物のパートナーとして、トムボーイのメイちゃんが登場する。トムボーイというのは、18種類以上あるというタイの性別の1つで、「男の子の恰好をしている女の子」なのだそう。タイに性別がたくさんあることは知っていたが、漫画で目にするまでは認識しづらかった。作中の主人公2人も同じだったのかもしれない。メイちゃんに会うなり首をかしげる2人に対して、レイコは「別に説明することでもないけど一応言っとくね」と伝える。

説明することでもないけれど。その感覚はなんだか心地がいい。タイでの性別のラベリングは、他者に説明するためのものではないのだろう。

実生活ではどうだろう。いまの私には「母、妻、嫁、アラサー」なんてラベルがある。世間話をしていると、「●●保育園のママ」「●●小学校に通う子は」「●●の習い事が」という、より細分化するラベルも出てくる。たいていの場合、そんなに良い意味では登場しない。私もよく口にしていた。

詳細なラベルであっても、あくまで外側に貼り付けた言葉に過ぎない。でも、その場にいる何人かが同意見になれば「やっぱり●●はそうなんだね」といった偏見が生まれ、拡散されていく。まわりにまわって本人の耳に届いたときには、真実は原型をとどめていない。

また、ラベルにこだわるあまり、ラベルが同じ人以外には態度を変える人間もいた。例えば、出身地だったり、年収だったり。出身地は同郷のよしみ、懐かしさもあるから理解できる。反対に、年収や職業を根拠に対応をあからさまに変えるのは、はたから見ると滑稽だった。こぞって自分のラベルを高らかに宣言して、同じラベル同士で何度も集まりたがる人たちは、一方でラベルは同じでも違う動きをする人に対しては、冷たかった。「母らしくない」「早生まれだから」「女の子なのに」ラベルをあえてマイナスの表現に用いるのを、何度耳にしただろう。どうやっても何をしていても言われるのだと気づいてからは、あまり気にならなくなった。

ラベルやレッテルを一切貼らずに、相手自身だけを見るのはなかなか難しいけれど、そうすれば関わり合える人はぐっと増える気がする。

『パリパリ伝説』 かわかみじゅんこ(著)

あらすじ

著者自身がフランス・パリへ移住する4コマエッセイ漫画。パリで出会う市井の人々や暮らす中での失敗談、ヨーロッパの国々やインド、タイなどへの旅の思い出、友人や幼少期のエピソードなどがたくさん詰め込まれている。既刊5巻。

自分の目で見ていないなら、決めつけないで分かち合う

本作は表紙からして実にゆるい。しかし、中身に描かれているエピソードはそんなにゆるくない。例えば、インド旅では肥だめに足を踏み外すし、欧州旅では宿が全然見つからない。とにかく多種多様な現地でのトラブルが描かれているので、タイトルにもある「パリ」以外の場所での話のほうが印象に残っている。

しかし、本作は絵柄のゆるさと著者のたくましさが相まって、どのページにも悲壮感は漂っていない。流行りのSTEAM教育やプログラミング学習よりも、この精神力をわが子たちに身に付けてほしいと思った。

あとから気づいたのだが、どのエピソードも他人との出会いや関わりが描かれていて、「誰かがこう言っていたからこうだ」というように、決めつける表現は見当たらない。あったとしても「~と聞いていたのは、本当だった」と著者自身の目、体験をもとにした感想となっている。

最近、子どもたちが時事的な話を、学校や幼稚園、カトリック教会の日曜礼拝の場、習い事の先生などから、たくさん聞いて帰ってくる。夕食時に我先にと披露してくれるので、私も話し返している。しかし困ったことに一緒に話せば話すほど、何が正解なのかがわからなくなってくるのだ。

例えば、子どもに話してくれた人の信仰するものと私の考えが違うときには、「その考え方はちょっと違うんじゃないかな」と訂正したくなる。でも、子どもの知識はまだまっさらに近い。私の意見や知っている事実を植え付けてしまってよいのかと迷う。

子どもの一人が通う園では、対立が起こると「分かち合い」のための場が設けられる。つまり、感情を腹を割って伝え合って、知識をお互いに交換する「対話」である。最初はなかなか意見を言えなかったわが子も、1年経って「ここでは発言していいんだ」という安心感を得たことで、積極的に発言するようになったと聞いた。年端もいかない子らでも、否定せず、相手の考えを受け取って、経験をもとに解決策を探るというから驚いた。

いろいろと思案した末、私も歴史や知識を子どもと共有すること、つまり分かち合うことを意識している今日この頃である。

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もえこのアバター もえこ 在宅ワーキングマザー

兵庫県在住。小学生2人を育てながら、現在ほぼフルタイムで在宅ワーク中。趣味は推し活と読書。

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