『ぽぽたむさまのマフマフに埋もれたい!!!』井口病院(著)
あらすじ
『うさぎは正義』の著者による、うさぎとの生活を描いたエッセイの第2弾。わがままでマイペースなうさぎと、翻弄されつつも、うさぎの可愛さに癒され、うさぎに骨抜きになる著者の姿が描かれている。
私は、ハムスターより大きな動物を飼ったことがない。だから、これまで「うさぎを飼いたい」と思ったことはなく、興味をあまり持っていなかった。
しかし、数年前から「うさぎ、いいな」と考えるようになった。きっかけは当時の同僚がビデオ会議中に「仕事しているときは、右手にマウス、左手にうさぎです」と話すのを聞いたからだ。冷え込む窓際のデスクで、かじかむ指でマウスがうまく操作できないとき、その話を思い出しては、私も片手でうさぎをモフモフしたいと思っていた。
本作はそんな甘いうさぎライフの妄想を、冒頭から打ち砕く。うさぎは飼うのではなく、飼い主がうさぎ様の召使いと化すのだ。
例えば、うさぎに欠かせない定期的な爪切りをしようとすれば、的確に飼い主の動脈を鋭い爪で狙ってくる。野菜は好きな部分しか食べず、コードをかじる。どれなら食べるだろうかと考える飼い主を横目に、口まわりにたっぷりと自らの糞をひっつけてくつろぐ。そのような生活を経て、糞すらも「またつけてるのー?かわいいー!」となっていくそうだ。
実際にうさぎを飼っていない身としては、口に糞がついて可愛いという気持ちは全然わからないが、生半可な気持ちで「うさぎ飼いたい」と思ってはいけないことは理解した。飼えないけれど、かわいいうさぎ達を見たいので、広島県にある「うさぎ島」こと大久野島にはいつか行ってみたい。ただ、その機会はまだしばらくなさそうなので、今日も他人の愛猫、愛兎の写真を眺めては、無言でいいねを連打している。
『ダッドのごとく!』大谷紀子(著)
あらすじ
主人公の達人は、自律の精神が高過ぎるあまり、娘へもとにかく厳しい。その結果、ウサギと入れ替わってしまうも、現実を受けとめきれず、タイトルどおり何度も「脱兎」する。そんな達人を助け、娘の穂乃香のフォローも行い続けるのが、第三者の千葉先輩である。なんと彼には、動物の声が聞こえる。
「動物の声が聞こえたら……」と妄想することは、今もときどきある。散歩中にカラスが集まっているとき、虫が飛び出してきたとき。聞こえていたら、いろいろな情報を集められるのでは?と思う反面、人間への恨み節が一日中聞こえてきそうで恐ろしくもある。
私にはそんな声は聞こえないどころか「急にかまれたらどうしよう」などと考えるばかりで、散歩中のかわいい犬を「撫でていいよ、大人しいからね」と言われて撫でさせてもらう娘らを、遠巻きに眺めることが多い。
過去に一度、野良犬がついてきたときには、その犬にあだ名をつけて乗り切ろうとした。「ミッキー!こっちじゃないよ」と見知らぬ人間に呼ばれた犬は、いったいどんな気持ちだったのだろうか。きっと警戒していたと思う。背中を見せれば襲われると考えた当時の私は、勝手につけたあだ名を連呼しながら、後ずさりして家に逃げ帰った。ミッキーとはそれっきり。
対人間でも同様に、あだ名をつけたり、いきなり距離を縮めることはあまり得意ではない。今もあるのかどうかはわからないが、中高生の頃は部活動で「クラブネーム」というものをつける文化があった。普段の名前よりも長いクラブネームや食べ物の名前、中には「もとの名前のほうが可愛いんじゃない?」と首をひねりたくなるものまであった。部活によっては、それをユニフォームに刺繍するところまであった。心からその名前がいいと思った人は何人ぐらいいたのだろう、と考えてしまう。
人間同士でも、聞こえてこない声はあるし、わかり合えない文化はある。そう考えると、千葉先輩のように動物の声が聞こえたとしても、事態が好転するかどうかはその人次第になりそうだ。私の場合、かわいいフワフワのうさぎに「なに、オドオドしてんねん」などと言われるかもしれない。
『BEAST COMPLEX』 板垣巴留(著)
あらすじ
本作の最終話で、オオカミのレゴシとウサギのハルは節目の年を迎え、肉食獣に傷つけられた草食獣が、傷をつけた者と一緒に出席し、古傷を清めることで邪気を払う「牙落式」という儀式に参列する。
ハルも前述の2作品と同じく、一見可愛らしい。でも、根本的にはとてもたくましく、レゴシにつけられた傷も大切なものだと言う。体力や筋力の面では弱い生き物でも、気持ちを強く持ち、胸を張って生きている。
相手を見下して偉そうにする、わかった風に決めつける、聞きもせずにあしらう。現実には、そのようなことは数多くある。先日も、子どもたちの学校では教師が生徒を何度も無視したと聞いた。子どもたちは大人の理不尽を飲み込み、謝るしかなかった。
そのような社会の中で、一貫してかわいさ・愛らしさを保ち続けるメンタルは、強さと言えるのではないだろうか。例えば、「ぶりっこ」と揶揄される人、「変わってるよね」と噂される人。そんな風にいわれる彼も彼女も自分を曲げることなかった。だからこそ、彼らの、喋り方、服装、髪型、振る舞いはどれもが唯一無二の自己表現になのだろう。
本心ではきっと傷ついたり、憤慨したりしていたはずだ。でも、毎朝自分らしい姿で歩いてくる様子はかっこよかった。能ある鷹は爪を隠すというけれど、かわいいウサギは強さを上手に隠すのかもしれない。
そんなことを考えながら、スマホから流れていた音楽を停止し、再生履歴を眺める。そこに並んでいるのは、透明感と空気感を含んだ声で、少しとがった詞を歌うアーティストの名ばかり。よくよく聞けば、現実の嫌なところを嘲笑し、本当はもっとこうなりたいとつぶやいている。自分自身の強さは十分ではないけれど、強くいようとがんばるウサギ的存在からパワーをもらって、私も自分を奮い立たせていこうと思う。