農業嫌いだった農家生まれの僕が考えるこれからの農業

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農家生まれの僕は農業が嫌いだった

稲作だけでは家族を養えないと僕の祖父が始めた酪農。物心ついた頃には、牛舎が遊び場でもあった。

酪農の仕事の最も大きな特徴は、朝が早いこと。朝の5時頃に起床し、朝食前に業務を開始する。早朝と夕方が中心で牛舎の掃除やエサやり、搾乳など、早朝と夕方の1日2回必ずおこなう。また病気や出産など、牛の体調に合わせて、時間に関係なく対応しなければならず酪農家は年中無休の職業である。

そこに稲作が加わる我が家は、なかなか自由な時間が取れない。幼いながらにその大変さを感じながら、やがて親のお手伝いとして農業に携わるようになった。遊びたい盛りであった20代は、週末や大型連休の作業が苦痛でしかなかった。メディアから発信される行楽地のイベント情報を見ながらも、僕たちは代掻き、田植え作業に明け暮れる。

そして朝晩の酪農業務が加わり、友達や家族と自由に遊びに行けないツラさとキツイとしか感じない「農業」が嫌いになっていった。

父が急逝 農家を継ぐか否か迫られた48歳

46歳のときに父が急性認知症と原因不明な病に伏し、緊急入院することになった。2年に及ぶ治療の甲斐なく急遽、誤嚥性肺炎で入院先の病院で亡くなった。

サラリーマンをしていた僕は酪農、稲作を専任で継ぐのか否か決断を迫られた。農業の廃業も選択肢にはあったが、僕はサラリーマン兼業農家となった。(酪農は廃業、稲作の実を継続)

なぜ、稲作だけ続けようと思ったのか。それは、農業の機械化が進み、稲作だけなら隙間時間をうまく利用できそうだったのと自然の中での仕事が会社勤務の気分転換にもなると思ったからだ。

農業を本格的にスタートして3年。51歳のときに僕はパーキンソン病を発症した。緩やかに進行する病に何とか向き合いながらも、将来のことを考えるようになる。病気の末期には自力で動けなくなる、おそらく会社勤務も困難になるかもしれない。

米は貯蓄のきく農作物だから、生産が安定していれば、就労が出来なくても収入の確保が一定できる。加えて、自宅に居ながらマイペースに働くことができる農業は僕にとって未来の可能性に思えた。

親子の事業継承は“キツイ”仲間たちの本音

「あなたはお父さん(お母さん)と一緒にうまく農業やれてる?」

ある日、そんなテーマで知人たちと話す機会があった。話の中で息子が後継で農業やると決心してきてくれたけど、親の態度に常々腹を立てていて数年後に我慢の限界で農業から去っていったという。これは他人ごとではないと感じた。

農家の後継者不足問題に関して、農家の子は、親が疲れ果ててボロボロの姿を見て育つから継がないとか、農業なんてやるものかと思ったとか、農業離れの理由に関して色々と言われるが、実は「あんな社長(親)のもとでは絶対働きたくない」という理由で農業を離れる人は多いらしい。これは目を背けてはいけない現実でもある。特に、親が子どもを労働力としてしか考えていない農家は、大概は後継者問題で失敗していると思う。

「何だその作業は!あれをやらないからこうなるんだ。」

「あれ」とはいったい何のことなのか?そんな抽象的な親の指示が飛び交う現場に正直困惑し、そもそも、その作業の意味がわからず、ほんとに必要なものか?と問う。理不尽な態度と、「なにがなんだかわからない」指示。言わなくても察して欲しい態度に困り果て「俺はエスパーじゃないから言葉にしてもらわないとわからない」と投げ返す。

こんな旧態依然な業務形態だから農家離れに拍車がかかる。これでは人が去って行くのも無理はないだろう。僕は、母と一緒に兼業農家をしているが、当初は一緒に仕事をするのが難しいと思っていた。会社に入れば苦手な上司がいてもある程度我慢して身を委ねることもあるが、親とはなかなかそうはいかない。

何故一緒にできるようになったのだろうか。

よくよく考えたら僕はもともと田んぼのある風景を眺めるのが好きなのだ。

その田んぼで採れる米の消費量が急激に減っていることを目の当たりにし、何とかしたかった。また息子の誕生を機に食の大切さを再認識したことで稲作は次の世代へ必ず継承するものであると考えが及んだ。だから親との関係性はおのずと気にならなくなっていった。

かつては人口全国一位だった新潟 これからの故郷を思う

僕の住む新潟といえば日本一の米どころ、絶対的なブランド力を持つ代表品種「コシヒカリ」。また新潟は綺麗な水が豊富で、気候も酒造りに向いており、淡麗で上等な酒ができる。さらに長い海岸線を有しているので多種多彩な肴が揚がる。

そんな新潟からどんどん人が減り続けていることを知る。もともと新潟には多くの人がいたが(明治初期の人口は全国1位) 古くから人材流出県ではあったらしい。時代と共に大量の出稼ぎで人が流出し、さらに上越新幹線や関越自動車道など首都方面へのインフラの開業で、多くの若者が新潟を出ていくことになった。

こうした、人が出ていく要因は、いつの時代でもまずは「職が無い」ことのようだ。そして「都会への憧憬」である。新潟県内には美味いごはんや酒、肴はあっても雇用が不足し、政令指定都市はあっても「魅力ある都会」ではないのかもしれない。だからといって手をこまねいてばかりでは、高齢化や過疎化は進み、県内は衰退していくだけだ。

その歯止めとして農業がひとつキーワードにならないだろうか。

見渡せば担い手不足に悩み、家族に後継ぎを託せない農家はいる。他方、何らかの理由で会社勤務ができないとか、会社勤めに息苦しさを感じている人たちがいると聞く。

「農」は「食」の基盤であり、「食」は「命」の基盤でもある。

自然との接点がある職業の一つでもあることから、人の価値観、人生観を変える力を持っていると思う。農業に携わることで自分への自信と農作物を育て、自分の特技を見つけるお手伝いができないだろうか。そんな人たちと人手が欲しい農家とをつなげる「プラットホーム」が存在すれば、お互いの就労問題を解決できそうだ。

調べてみると農家と個人をつなぐマッチングサービスが既に存在していた。個人(働き手)は、スマホで登録し行きたい時間に畑や田んぼに行く。マニュアルが用意されているので事前に作業内容が確認できるので誰でも現場で作業ができる。農家(仕事を頼みたい人)は、繁忙期などスポット雇用ができるからコストも抑えながら、仕事も捗らせることができる。Win-Winの関係性だ。

そのサービスで将来的にも人が集まる地域を作りたい。そんな未来を思い描く。

これまでぼんやりとしていた自分のやりたいことが、ようやく見えてきた。

奇しくも廃れていく故郷への思いが嫌いだった農業を好きにさせたのだ。

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亀蔵のアバター 亀蔵 兼業農家COO

新潟市8行政区の中の「ハーベスト(収穫)イエロー」イメージカラーを持つ地区在住。美しい田園風景が広がる地で週末稲作兼業農家を営む。スキルアップと将来を見据え在宅ワークも生業にと考えNo frameにジョイン。農業の抱える問題について何かできることはないのか?ライターとして発信することを決意。楽しく人が集まる農業のあり方を追求し地域活性化を目指す!

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