誰もがその家族の幸せを願わずにいられない『やさしい猫』
外国人のオーバーステイ(不法滞在)問題。そう聞くと、一瞬「犯罪の話?」と思ってしまいそう。けれど、そうではないのです。海外から働くために日本へやってきてその職を失い、求職中にビザの期限が切れてしまうケース。親がオーバーステイであるために、日本で生まれて日本で育った子どもであっても、赤ちゃんの時から不法滞在者となってしまうこと。この物語を読んで、今まで自分が知らなかった多くのことを知りました。
実際に、名古屋出入国在留管理局施設に収容中だったスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが2021年に亡くなってしまった問題はニュースで大きく取り上げられ、「不当な扱いを受けていたのでは」と波紋を呼んでいます。
この物語は、主人公のマヤという女の子の語りで進みます。そのためか、深刻なテーマであるにもかかわらず、とても親しい友だちの話を聞いているように、マヤと家族のできごとに一緒になって一喜一憂しながらページをめくりました。自分と遠くない世界での話のように感じられて。読者も一家のしあわせを願わずにはいられなくなる、あたたかな物語です。
マヤは小さな頃にお父さんを病気で亡くして、お母さんであるミユキさんとふたり暮らし。保育士の仕事をしているミユキさんは、東日本大震災のボランティアで被災地を訪れ、そこで炊き出しのボランティアをしていたスリランカ人の若者・クマさんと出会います。ミユキさんとクマさんは一年後に東京で偶然再会し、それからゆっくりとゆっくりとふたりの恋が始まるのですが……。
クマさんが教えてくれた食べ物や飲み物。マヤが紙の裏側に書いたささいなメモの数々。そして、ミユキさんとクマさんをモデルにマヤが描いた絵……
どこの家族でも、きっと家族の思い出の品といえば、他人から見ればなんでもないようなものかもしれません。そのひとつひとつに、家族だけが知っている思い出があるはず。そのささいなひとつひとつをマヤたち家族は大切にしていて、やがて家族にとって重要な「家族が家族である証拠」になってくれるのです。
タイトルの「やさしい猫」とは、出会ったばかりのクマさんがマヤに聞かせてくれたスリランカのおとぎ話。猫がその親を食べてしまった子どものねずみたちと出会って改心し、親の代わりに子ねずみたちを自分の子どもと一緒に育てるという話です。ちょっと不可解な結末のお話は、マヤの記憶に残って「どうして『やさしい猫』なんだろう」とたびたび思い起こさせます。そして、「やさしい猫」のお話は幼なじみのナオキくんの心にも残り、お話に出てくる猫と、その猫に親を食べられてしまうねずみは、多数派と少数派なのではないか、という解釈を語ってくれるのです。自分が、意識しないで何かの多数派、あるいは少数派に属していること。そこにある見えない壁を壊すには、まず知って思いやること。そういう積み重ねが、誰かのしあわせにつながるのではないかと思いました。
太宰治の「女生徒」を鍵にした、母と娘の一日『Schoolgirl』
朝起きてから夜眠りにつくまで。主人公である母親がひんぱんに声をかけるのは、家族や友だちではなくてAIスピーカー。これがひと昔前であれば、主人公が機械に生活のこまごました目的のために声をかける物語は、SFにカテゴライズされていたでしょう。今の私たちには「身近にありそうな」母と娘の物語として受け入れることができます。
主人公は、仕事が多忙で不在がちな夫と中学生の娘と3人家族。自身は専業主婦で、多感な思春期を迎えた娘のことで頭がいっぱいです。娘が変わり果てた姿になる夢を見て、うなされる主人公。その娘は「社会をより良くするため」YouTube配信をしています。環境問題、グレタ・トゥンベリ、菜食主義。インターナショナルスクールに通い英語が堪能な娘の興味関心は、社会へと向けられていて、YouTube配信もその啓蒙活動のひとつなのです。自分から見て母親は「空っぽ」、社会への関心が薄く知識に乏しい存在として、いらだちを覚えています。
主人公は娘のために食べてもらえないかもしれない料理を作り、メンタルクリニックへ娘の相談に足を運ぶ。そして、娘の方も配信では「もしもお母さんがいなくなったらどうしよう」と自分にとって母親が大きな存在であることを語っているのです。
ふつうの少女がネット配信で全世界に向けて本音を語り、それを母親が観る。なんだか不思議なシチュエーションだと思います。親には素直に話せない自分の思いを、インターネットでは語れてしまう。それは、近しい人たちにはわかってもらえなくても、こうして語っていればどこかの誰かには自分を理解してくれる人がいるはずだ、と信じているからなのでしょうか。
物語は、太宰治の短編『女生徒』が重要なモチーフとして登場しています。母親のクローゼットにある膨大な蔵書を見た娘は、その奥へ行けば行くほど母の過去の読書歴をたどることができると気づきました。教育の本、育児の本、出産の本、そして結婚にまつわる本。その中で最も古い一冊、表紙がぼろぼろで図書貸し出しカードが入っている本『女生徒』を手にします。太宰のファンである少女が書き送った日記をもとに描かれた小説。娘に言わせると、「一九一九年生まれの、実在した少女を記録したノンフィクションでありドキュメンタリー」。母も、娘も、お互いを大切に思い失うことを恐れています。それなのに寄り添えない。
繊細なガラス細工を、落とさないようにそっと手にしている感覚で読み進めていくと。それでもふたりにとって、今日より明日が良い日になるのではないだろうか。そんなほのかな予感が印象に残りました。
最先端医療ロボットを巡りふたりの医師の激しい対立『ミカエルの鼓動』
北海道の大学病院を舞台に描かれた医療サスペンス小説『ミカエルの鼓動』。手術支援ロボット「ミカエル」を推進する心臓外科医の主人公・西條とドイツから帰国した天才医師・真木の対立が物語の核となっています。自分の医療方針と医師としての将来を支持しているはずの病院長・曽我部が真木を招へいしたと知り、動揺する西條。自分へのマスコミ取材を知らないうちに断り、何かを隠しているようなそぶりの経営戦略担当病院長補佐・雨宮。そして、ミカエル推進派で西條を慕っていた医師が突如勤務先の病院を退職、命を絶つ事件が起こります。
大学病院での権力争いや、登場人物それぞれの思惑が交差してハラハラしながらページをめくる指が止まらなくなりました。なんといっても、医療は人命を大きく左右する重大な問題。手術をミカエルを使用して行うべきか、それとも人間の培った技術を信頼して託すべきか……。心臓手術を控えたひとりの少年・航をめぐって、西條と真木はいよいよ激しく衝突するのです。西條、真木それぞれの薦める手術について航と両親に直接説明し、そのうえで「どちらの手術を受けるのか」選択を患者である航自身に委ねます。幼い頃から難病を抱え、心も深く傷ついている航の決断は……。
医療をテーマにしたサスペンスと聞くと、冷酷でドロドロした権力闘争の世界をイメージして登場人物に感情移入できないのではないかと思いましたが、全くそんなことはありませんでした。主人公の西條と真木の人間像が丁寧に描かれていて、物語が進むうちに西條の、そして真木の抱えた生い立ちの辛苦や孤独が明らかになっていきます。医療技術の方針で対立するふたりですが、共通する点が多く、ふたりとも「多くの命を救うための医療」を目指している信念は同じ。そして、医師として持っている卓越した技量について、お互いに認め合っている。最先端の医療技術をモチーフにしながら、描かれているのは熱く真摯な人間ドラマ。単純な勧善懲悪の話ではないからこそ、引き込まれていく1冊です。
もしも自分が患者の立場で手術を受けるとしたら、どちらの医療を選ぶでしょう。医療を……というより、やはり「医師」を選ぶような気がします。自分の命がかかった決断は、「この人なら」と思える相手にしか委ねられない。その方法としての機械か、人の手かという違いなのではないかと思いました。